​ブラジル  マリアは産む  2000

 

 アラカチの町から、乾いた大地をパジェロは内陸に向かって時速100キロでつき進んでいた。道路の両側はどこまでも平原が広がり、遠くに低い丘が見える。車外の気温は38度。ときおり馬に乗った男たちがのんびり街道をいくのが見える。雨季になったので天から恵みの雨が降り、乾ききっていた大地に潤いをあたえ、新しい命が次々に誕生していた。1ケ月前まで枯れていたブッシュには下草がはえ、黄色や白の小さな花が咲き乱れている。蝶たちはさなぎからかえり、何万羽もの集団が街道の右から左から沸き上がってきては舞踊っている。車はその中を、速度を緩めずつき進んでいく。蝶はフロントガラスに叩きつけられ、べちゃっとつぶれた残骸がはりついた。

 私は1週間前にアラカチの病院で出産した女性の家に向かっていた。彼女の名前はマリア。西洋の血と先住民族インディオの血が長い年月をかけて入混じった土着的な顔立ちをした、小柄な女性だ。病院で会った彼女は、38才という年齢より少し老けて見えた。
 その前の週、私は出産の写真を撮影するためにアラカチ市の病院に1週間ほど泊まりがけの取材に出かけていた。ちょうど満月の前後で、出産はラッシュだった。ある朝、マリアが入院してきた。産科棟の婦長が私に「この人は16人目の赤ちゃんを産むのよ」と教えてくれた。入院服の彼女ははちきれそうなおなかで、少し恥ずかしそうにはにかんだ。

 夕方、分娩室の前で彼女を見かけた。このときは、さすがに陣痛が始まっていたのだろう。付き添いのいない彼女は、重たい腰を自分でさすっていたけれど、まだまだ産まれそうには見えなかった。
 夜になって、昼間から陣痛室に入っていた若い産婦がいよいよ分娩室に入った。30分ほどして赤ちゃんは生まれてきた。会陰切開もなく、薬剤もつかわない自然でほのぼのとしたいいお産だった。私が生まれたばかりの赤ちゃんの写真を撮っていると、ほかの分娩室から看護婦が呼びにやってきた。
「あっちの分娩室で、もうひとり生まれました」
 急いで行ってみると、分娩台の上にマリアがいて、生まれたばかりの赤ちゃんを胸に乗せている。さっき会ってから3時間ほどしかたっていなかった。分娩室に入ってから15分くらいで生まれたようだ。彼女はまだ少し緊張していたけれど、苦しそうな表情はなく、むしろほっとしたような顔をしていた。いかにもベテラン経産婦らしく、あっけなないほど軽いお産だった。

 16人もの子どもを産んだ彼女の家族に会いたくて、私は病院のあるアラカチ市から運転手を頼んで、車を飛ばしてやってきたのだった。
 ブラジルでは、どんなに田舎でも施設での出産を政府が奨励している。今や世界中の国々で、子どもは病院で産むのが当たり前になりつつある。ましてや先進国を目指す国にとって、西洋医学における出産、誕生をおし進めることは重要な政策になっているのだ。多くの途上国にとって、人口増加と乳児死亡は大きな問題になっているから、どちらも国レベルでとり組んでいる課題だ。
 とはいえ、ブラジルでは病院で出産しても、産後の入院はたった1日だけで次の日には退院。マリアの場合は、医師に進められて卵管結札の手術を受け、2日目に退院していった。私はちょっとそこまでという気持ちで彼女の家を目指したのだけれど、車は行けどもなかなかマリアの村へ到着しなかった。
  いくつかの小さな町を抜け、街道からガタガタ道に入り、なお馬や山羊、豚、牛のいる村を通り過ぎ、やっと目的の町ラゴイーニャに着いたころには、出発してからすでに2時間がたっていた。なんという距離を彼女は子どもを産むために移動してきたのだろう。
彼女の家はさらに村のはずれにあった。細い木の枝をそのまま並べた庭の柵。土がむき出しになったままの壁。粗末な家から、子どもたちがいっせいに出てきた。ガスも水道もトイレもない貧しい家庭だった。
 電話がないから、私の訪問は突然のことだったのだけれど、マリアは花柄のワンピースを着て表われ、病院で会ったときよりいくらか若く元気そうに見えた。外国人の訪問はその村では初めてのことだったのかもしれない。パジェロが着くと、となり近所から人がたくさん集まってきた。

 夫も仕事先から帰ってきて、家族が集まった。総勢10人。マリアは16人の子どもを妊娠したけれど、そのうち流産が3人、死産が2人あったというから実質の子どもは11人。そのうち上の3人はすでに成人して家を出ていた。現在は1週間前に生まれた赤ちゃんを入れて8人の子育てをしている。

 マリアは16才で結婚し、同じ夫とのあいだに22年間に16人の子を妊娠していた。およそ1年4ケ月にひとりの割合で妊娠していた計算になる。ブラジルは子だくさんが多いのだけれど、さすがに16人はめずらしいほうだ
(20人とか25人産んだという女性もいるらしい)。
 ブラジルでも都会はみんな子どもはひとりかふたりになっているし、かつて戦前までの日本も6人や8人はめずらしいことではなかった。避妊方法を用いず、カソリックであることも彼女が子どもを産み続けなけた理由のひとつかもしれない。

 それにしても私は、町からの距離が気になった。村の女性はすべて、この117キロという距離を病院に産みに行っているのだろうか。
「ほかの人たちは、この村の小さな施設で出産します。でも、私自身あの町で生まれたし、大きい病院のほうが安心だから、今いる子どもたちはすべて町にいって出産しました」という。
 彼女は陣痛が始まりそうになったとき、自分でその時を見計らってバスに乗った。村から町まで、ローカルバスを2台乗り継いで5時間。彼女はそれをひとりで行ったのだった。
 それでも町に行って産むのは、マリアがいくたびかの流産と死産をのり超えていたからかもしれない。「何かあったときに、大きい病院のほうが安心」と、彼女は出産した日にも言っていたのを思い出す。
 けれど彼女の家は、都会に住む運転手氏の目にも貧しいと感じられたほど、慎ましやかな暮らしむきだった。ブラジルでは出産は公共の病院ではどこへ行ってもすべて無料。けれど、バス代は自費だ。さらに多くの人は出産場所を選択する余地もなく、住んでいる地域の施設で出産する。そんな中で、彼女は117キロという距離を超えて子どもを産みに町へ出たのだった。
 マリアは、私が帰ろうとしたとき、急に涙ぐんだ。お産が縁で、自分のためにはるばる自宅に来た外国人へのたむけの涙のように私には思えた。彼女は別れを惜しんで涙を見せたのではなく、自分のお産にかける意気込みを見知らぬ外国人が気がついてくれたことを喜んだのだと私にはわかる。

 女はときとして、お産を自分の晴れの舞台にする。妊娠、出産、子育てをくり返してきたこの22年間。彼女にとって妊娠は日常のことだった。子どもを育てるのも当たり前のことだ。でも、お産はひとつの通過儀礼でもあり、女にとってお祭にもなりえる。彼女は村のほかの女性とは違う形で、お産を感じ、遠距離をわざわざ産みにいくことで、自分の出産を祝っていたのではないか。彼女なりの表現で、彼女は自分というものを見い出していたのではないかと思う。
 私も長年妊婦とつきあう仕事をしていて、お産が女にとって晴れの舞台になりうることを見てきた。昔は世界各地で、お産は自宅で行われ、当たり前に女たちは助産婦や近所の女たちに助けられながら、あるいはときにはひとりで子どもを産んでいた。そこにも、女同士の助け合いがあり、祝福があった。

 今では、お産はそのほとんどが病院で行われるようになって、近代的な施設であればあるほど分娩室は病院の奥の院となって、出産は医療に隠れて見えなくなってしまった。近所の女たちの祝福もなく夫もいない隔離された空間には、かつてのような女の営みとしてのお産を見ることは難しくなってしまっている。
 それでもなお、女たちは世界各地で、お産へ自分の思いを投影し、日本ではゴージャスな病院やフランス料理を出す施設に人気が集まっている。未来的な分娩室での出産には、昔とは違った通過儀礼としての医療行為も備わっている。女たちは出産の新たな環境を演出しようとしているのだ。

​ブラジル

​チベット

​ミクロネシア

 

​出産をめぐる世界の旅

 

 チベット  ヤクの毛皮の上で  2001

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 東チベットのカム地方。標高4500メートルの高地に、理塘県曲登郷という小さな村がある。遊牧民たちは移動式テントで生活をしているが、今は定住のための家屋が少しずつ建てられるようになってきた。チベットでも、子どもたちに教育を受けさせようという動きが出てきて、そのために一定の土地に定住することが求められるようになってきた。
 その村はなだらかな丘が連なる牧草地に広がっていた。町からはジープで3時間。10分に1回はジープの天井に頭をひどくぶつけてしまうほどの悪路を、走り続けてやっと着く。高地なので空気が薄く、日本人はちょっと走ったくらいですぐ息が切れ、動悸が激しくなるほどだ。村の男たちの交通手段はもっぱら馬。遊牧の荷物を運ぶのは、ヤクという水牛のような大きな動物である。
 そんな偏狭の地域だからもちろん無医村。子どもたちは全員、自宅で生まれている。生後6ケ月の赤ちゃんがいる家を訪ねた。家の中は、石で組んだ竈(かまど)があり、他にはほとんど家具は見あたらない。
「家の中のどこで赤ちゃんを産んだのですか」とたずねると、母親は家のコーナーにある毛皮の上を指さした。毛皮はヤクのもの。家にはベッドがなく、その毛皮が寝具である。赤ちゃんもその上で生まれたというわけ。
 この家族は、いわゆる核家族。チベットのニューファミリーなのだろう。同居する両親や親戚がいないので、お産は夫がとり上げたと言う。
 昔から赤ちゃんは家族の中で生まれてきたので、人々は小さなときから家庭の中で出産を身近に見ている。男性にとっても、ヤクや馬のお産と、そう変わりはないのかもしれない。

●納屋で産んだ母親
 別の機会に首都ラサから車で3時間ほど行った、小さな村を訪れたことがある。そこで1ケ月前に出産したという女性に会った。彼女はなんと、家の庭にある納屋で出産したと話してくれた。お産のとき夫は半年間の遊牧生活に出ていて留守。日本で言えば、長期出張中というところだろうか。
 お産は産婦の母親が付き添った。3人目の子どもだが、3日間陣痛が続き、3日目の朝、彼女は家の中から突然外に出たくなり、納屋へ行ったと言う。チベットの遊牧民たちは、一家に少なくとも一頭はヤクを飼っている。ミルクや毛をとったり、家財道具を運んだり、畑を耕す助っ人でもある。
 彼女は、そのヤクの小屋へ行ったと言う。そこには藁が積み上げられている場所があった。女性はとっさの判断で、どこに赤ちゃんを産めばいいのか直感的に見つける。どこで産んでもいいというわけではないのである。もちろんこうしたことはマニュアルがあるわけでも、だれかが指示したわけでもない。
 とにかく彼女は藁の山をみつけ、その藁をまたぐ格好で立って出産したと言う。「子どもが出るとき、思わず前へぴょんと飛んで、赤ちゃんはおしりのうしろに出てきた。ははは」と言って、笑った。産婦の母親が素早く、赤ちゃんが落ちる前にすくい止めた形になったそうだ。

●神に守られたお産
 その女性に「医師も助産婦もいないこの土地で、ひとりで出産するのは怖くなかったですか?」と、私は質問した。すると、その女性は驚いたような表情をした。そして「あなたはお子さんがいますか?」と聞くのだ。「はい」と答えると、彼女はさらに不思議そうな顔をする。なんでこの人(私のこと)は、自分で産んだことがあるのに、そんなことを質問するのか、といった表情だ。
 そして、「お産は女の仕事。なんで怖いのですか?」と言う。この村の人たちは、現在でも全員が自宅で生まれている。ほとんどみんな健康で元気なお産だという。
 「でも、死んだ赤ちゃんはいないんですか?」とさらに私は尋ねた。
 すると、「そりゃあ、まれには死ぬこともある」・・・と。それはほんとうに自然に出た言葉でした。そこにはなんの悲愴感もただよってはいませんでした。「まあ、いろいろなことはある。でも、何でそれを恐れる必要がある?ただ神を信じて受け入れているだけ」と言っているように聞こえた。
 もちろん、それを今の日本の出産事情と比較することはできないけれど、医療の中だけでお産を捕らえていた当時の私には、かなり衝撃的だった。
 現代医療の中では、死は敗北のように捉えられがちだ。出産において、死はあってはいけないことではあるのだが、周産期死亡率が世界的に低くなった日本でも、出産にまつわる死はまったくなくなったわけではない。それをできる限りないものにしようと医療は発展してきたわけだし、医療に囲まれて人々は安全なお産ができるようになってきたはずなのだが、一方でこのチベットの女性のように自信に満ちた言葉をもてなくなっているのも事実だ。
 医療のないチベットにおける偏狭の地域では、出産と同じように死もまた自宅で迎えられる。チベットの人々は、誕生や死を生活の中で身近に体験することで、自分たちそのものが自然の中の一部であり、生も死も隣り合わせにあるものだと考えているのかもしれない。チベット仏教では、輪廻転生が信じられている。死んだら生まれ変わるという考え方は日本人には馴染みの薄いものだが、こうした信仰もまた人々の生死観のベースになっているのだろう。
 産後、胎盤はどうするのかと質問したところ、川へ返すという答えだった。チベットの川は、日本の都会の河川とは違う。日本で今、胎盤を川に捨てたら大変なことになるが、チベットの川はヒマラヤの雪解けの水をたたえた神聖な川である。人々は、その川の水を飲んで暮らしている。胎盤をその川へ流す。それは捨てるという行為ではなく、10ケ月間子どもを守ってくれた胎盤に感謝し、神の川へお返しするという人々の願いが込められているのである。
 そう遠くない昔、かつての日本人も深い信仰心を持っていた。自然の中に神がいて、それが人々を守ってくれると信じていた。今は、神の変わりに科学や医療が信じられている。

 

ミクロネシア  産屋のある島  1999

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 太平洋の真ん中に、ポツンとごまみたいに浮かぶ島、ウォレアイ島。ミクロネシアの島々のひとつだ。
 そこに「産小屋がある」と聞いた。その言葉を聞いたとき、あまりに美しい響きに、めまいにも似た衝撃を覚えた。現存する産小屋、しかもまだ島の女たちは、その産小屋で出産しているという。日本でも明治の時代まで地域によっては町や村の片隅に産小屋があり、出産が行われていた。現存する産小屋。ぜひこの目で見てみたかった。

 私はその島へ行くという日本のプロジェクトに頼み込んで、連れて行っていただくことになった。しかし、その島へ入るのは簡単なことではない。
「ビザはないのですが、島へ入るためには酋長の許可が必要です。観光地ではないので、宿泊施設もありません。島の人にお願いして泊まるところを提供してもらわなければなりません。」とプロジェクトリーダーのKさんが言う。
 島では自分たちの文化を守るために、島への外部者の出入りを意図的に制限しているという。島へ入るためには酋長にまずお願いし、さらに小さい島々から集まった各酋長が集まる総合会議にかけられ、最終的に決められる。許可がおりるかどうかは、島の掟を守れるかどうかが決め手になるという。

 まず、写真は許可なく撮らない、撮影した写真を商業的な目的で使用しない。女はメンズ・ハウスに近づいてはならず、漁をしてはならない。飲酒も禁止など、いくつかの禁忌があり、最後に「できる限りトップレスで生活すること」という項目がついた。なんとこの島の住民は、トップレスで生活しているのだ。 写真を撮る人間にとって、自由に撮影できないというのはかなり苦しい。さらに写真の発表も禁じられた。
「島には伝統的な文化があり、生活があります。彼らを撮影して、写真を撮った人がよその国へ帰って、それによってお金を得ることを彼らは好みません。それは彼らの生活の一部を切り取っていく行為で、彼らに何も還元していかないからです。」

 ミクロネシア諸島でも、すべての島がトップレスで生活しているわけではない。当然、この島の人々もほかの島の人たちが服を身にまとっていることを知っている。ミクロネシア連邦共和国の首都、ヤップ島はグアムほどではないにせよ、アメリカの資本は入ってきているし、通貨もアメリカドルだ。そうした近隣の島を見渡してみてもなお、この島の人々は自分たちの伝統を守ることを死守してきた。
 ほかの太平洋上の島々と同様、この島にもキリスト教の宣教師が訪れ、島の人々はみなキリスト教を信仰している。周囲2キロの小さな島に、公共の車が2台。最近はテレビ、ビデオ、カセットデッキなどの電化製品をもつ家も出始めた。学校を作り、独自の文字をもたなかった島の言葉は、英語のアルファベットに置き換えられ、英語の教科書を使って授業が行われている。
 そうした外国の文化を入れながらなお、島の人々はこと「着る」ということに関しては、独自の文化を入れることはしてこなかったのだ。それは島の代表、長(おさ)たちが協議して決めたことだという。

 衣食住のうちでも「ファッション」は、どこの国々でも外国からの新しい文化が入ってくるとともに変化してきた。もっとも早く変化する要素といっていいかもしれない。時代とともに日本人も着物を捨て、まず男がズボンをはき、靴をはいた。次第に女たちも髪型をかえ、洋装になっていった。和服を最後まで捨てなかったのは、私の祖母の世代、明治生まれの女たちだった。
 この島では、島の外から入ってくる文化やモノに対して、取捨選択が民族の合意の上に行われている。その中で、男たちもファッションとしてほか国の文化をとり入れることを拒み、現在でも木綿の布の長いふんどしを腰に巻いている。女たちは、木綿の糸で織ったラバラバと呼ばれる色鮮やかな厚手の布を巻いている。赤道に近いという土地柄もあるのだろう。服はどうしても必要な必需品ではない。

 多少不安もあったけれど、島におじゃまさせていただくためには、島の流儀に従うのは当然だ。
いくつかの禁忌に加え、ラバラバ1枚で生活する覚悟を決めた。
 しかし、いつ、どのようにトップレスになればいいのだろう。こちらとしても生まれてこのかたずっと育んできた習慣を、そう簡単にはずすことは難しい。ものごとにはタイミングというものがある。細かいことだが、気になる点だった。Kさんは「島に降り立ったときには、シャツを脱いでいてください。」と教えてくれた。なるほど。ヤップ島でTシャツに着替え、飛行機が島についたときにシャツを脱ぐのだという。かくして私は、飛行機が島に着地した瞬間に、勇気を出してバッとシャツをはぎとり、トップレスになった。半分やけくそにも近い心境の中で、「しゃれなのだ」と先進国に住む自分を笑い飛ばすしかない。

●トップレス生活
 島へは、バスのような8人乗りくらいの飛行機が、月に2往復している。まるで月のリズムのような定期便。私のフライトはちょうど満月の日に島入りし、次の新月の朝に迎えがやってきた。
 飛行機が島に着陸すると、ジャングルの中から島民たちがぞろぞろ出てくるのが見えた。月に2回やってくる飛行機は、島の人にとってはイベントなのだ。それは島へ手紙や荷物、ときにはバースデーケーキや贈り物を運んでくる。ヤシの木々を背景に茶褐色の肌のボディが何十人も並んでいる。こんなに多くの裸のボディを見るのは初めてなので、私の目は人々に釘づけになる。こちらも見てしまうのだけれど、彼らもまた私たちのことをジロジロと眺めた。私の肌は白過ぎて、太陽の洗礼を受けていない。彼らの目にはなんとも弱々しく見えたことだろう。
 私は、ブラジャーの支えを失ったおっぱいを白日に曝しながら、南の島の滑走路に立っていた。すぐ目の前にせまるヤシの林から、風が肌をスースーとかすめていく。なんとも頼りどころのない、あやうい上半身。久々に男女差というものを痛く感じる。おっぱいを出すことがなんでこんなに大変なことなんだろう。考えてみれば不思議なことだ。私は、女性のおっぱいは隠すことによって意義があるという教えの文化に育ってきただけで、鼻も耳もお尻も単にからだの一部であることには変わりないのだ。この島の人にとってごく当たり前のことが、私の頭の中では当たり前なことではなかったというだけの話だ。とはいえ、見栄を張るわけにもいかず、歓迎用に首にかけてもらった美しい花のレイでどうにかカモフラージュするのに精一杯だった。
 でも、初めは戸惑い恥ずかしかったトップレス生活も、日に日に快適になっていった。つべこべと考える先進国人の意識よりからだが原初的な生活を覚えていたのだろう。人間は所詮動物なのだ。ついた瞬間にシャツを脱いだのを皮切りに、次の日にはパンツを脱ぐことになり、3日目には食事を手で食べ、4日目に時計も捨てた。下着もフォークもみんな役にたたないモノと化し、時間というときの流れも太陽の位置でおおよその時刻がわかればそれでいい。

●海沿いの産小屋
 島に宿泊施設はないので、ある一家にお世話になることになった。私にはビーチに建てられたヤシの葉で葺いた小屋が提供された。床も壁もドアもヤシの葉できっちり編んだむしろで作られている。10畳ほどのワンルームだ。
 この小屋が実は、有事の際に産小屋になるのだった。なーんのことはない、赤ちゃんと母親のための『お産の家』は、ただのヤシ小屋だったのだ。しかし、産小屋での宿泊とはなんとラッキー。この小屋は、普段はみんなの休憩室として使われているようで、住人はいない。私の食事はお世話してくださる一家のお母さんが作ってくれ、さらにひとりで小屋に泊まってもらうわけにはいかないと、3人の女性たちが特別に私といっしょに寝泊りしてくれることになった。
 島には要所要所にこうした小屋があって、女たちは住んでいる近くにある小屋へ行って出産する。私が到着した日の3週間ほど前に、となり村で赤ちゃんが生まれていた。さっそく話を聞きにいくと、その母親も陣痛が始まってから、ゆっくりと小屋に赴き、子どもを産んだのだという。介助したのは、産婦の母親と親戚のおばあさん。ふたりとも立派な産婆である。この島は人口が600人なのに、産婆と呼ばれているおばあさんはなんと6人もいるそうだ。もちろん助産婦としての教育は受けていない伝統的な産婆だが、彼女たちは何がしかの衛生教育は受けているらしく、産婆として島の人々に認識されているようだった。
 出産は、小屋の中で仰臥位に寝て産む。床はヤシのムシロを敷いてあるだけなので、その上に赤ちゃんを産み、悪露や羊水はそのまま砂に染み込んでいく。産婦の汚れたからだは、出産直後に目の前の海に入って自分で洗い流す。「とても清潔でしょう」と、その母親は言っていた。パンツもはかない生活だから、悪露や生理はどうするのだろうと思っていたら、1日に何度も海に入るので、パッドなどはとくに必要ないらしい。
 彼らにとって、海は日常生活にはかかせないものだ。海は風呂でもあり、トイレでもある。珊瑚礁の環礁なので、まったく波のない穏やかなビーチ。だから、波にさらわれることなく、ゆったりと水浴びができる。
 胎盤はヤシの葉に包んで、ビーチに埋める。それでお産はおしまい。男女差がはっきりしているこの島では、夫がお産に立ち合うこともなければ、産小屋に近寄ることもない。仕事を休んで漁に出て、産婦のために魚を採るのが夫の勤めとなる。小屋は女たちだけの空間だ。親戚の女たちが集まって、まわりに簡易のキッチンをつくり、そこで煮炊きをする。産婦は10日間、赤ちゃんといっしょに蜜月のときをビーチで過ごす。毎日、いっしょに何度も海の水浴びをしながら。この水浴びのことを「テューテュー」といって、島の人たちは老若男女、朝起きるとテューテュー、夕食前にテューテューというぐわいに、海に入る。
 なにしろトイレが海なのだ。私は生まれて初めて、海の中で用をたした。自分の排泄物が、透き通った海水に浮かぶ様は、なんとも愉快だ。漂っているそれを私はまじまじと見つめる。しかし、感慨に浸る暇もなく、色とりどりの熱帯魚がワッと集まってきて、きれいに消えてしまうのだった。
 そんな海と一体の島だから、元祖水中出産があるのでは?と、私は何人もの人に「昔、海の中で出産した人のことを聞いたことはありませんか?」と尋ねてみたのだけれど、期待に反して答えはNOだった。もし陣痛が海の中で始まった場合は、ただちに陸へ上がると断言していた。こんなに海と密接に生活している島の人がそう言うのだから、やはり水中出産というのは近年、かなり戦略的に始まったものと言わざるを得ないのではないか思う。
 しかし、出産は海からほんの10メートルほどのところで行われているのは事実で、彼女たちは波の音を聞きながら、あるいは海を眺めながら産み、出産直後海に入る。「水を使う出産」という広義の水中出産の定義には十分入る範疇だ。
 海岸のヤシの葉で葺いた小屋で、助産婦に見守られながら子どもを産む。夜には松明を焚いたことだろう。まるで神話のような、自然に抱かれたお産がまだここには存在している。

●究極のターミナルケア
 ウォレアイに滞在してちょうど1週間が過ぎようとしていた頃。いつもいっしょに小屋で寝てくれていたティアーナという女性が小さな声で「親戚のおじさんが病気なの。行かなくちゃ」と小屋を出ていった。その晩から彼女は帰ってこなくなった。世話をしてくれるわが家のお母さんも病人の家に通いだし、その日から周りの女の人たちは、なんとなくセカセカした状態になっていった。
 次の日の夕方、お母さんが「いっしょに病人のお見舞いにいこう」と私を誘ってくれた。病人の家は石の土台の上に建った木造の比較的大きな家だった。家の端から入ると、中にはすでに15人くらいの人がヤシの葉でつくった敷物の上に座っている。部屋の中央には、布団に寝た老人が横たわっている。やせ細った老人は、娘や親戚の女性たちに囲まれていた。その老人は、すでに1年ほど前からガンにおかされ、ほかの島で治療を受けていたが、島に帰ってからは寝たままの生活だったという。急に様態が悪化したのか、親戚が集まってみんなで看病する体制に入ったのだ。
 老人のすぐそばにいる人たちは、ヤシの葉でつくった団扇であおいだり、老人の背中や肩をさすったり、ときどき声をかけたりしている。そのひとりに前述のお産を介助した産婆がいた。彼女の表情はとても深遠で、どうどうとして、実にカッコよかった。
 看護人たちを囲むように、人々が次々と集まってくる。40人くらい集まったころ、だれからともなく歌声が聞こえてきた。すると、それに呼応するように、たくさんの人が歌い始めたのだ。それは、教会で歌われる聖歌だった。島の人はみな、熱心なキリスト教信者なのだ。あたりは次第に暗くなり、闇に閉ざされていく。
 想像してみて欲しい。暗がりの中で、中央に死にゆく人を囲んで、裸の老若男女がひと部屋に40人も集い、南国らしいのんびりしたメロディーを口ずさむ様を。褐色の肌が、裸電球の淡い光の中で揺れている。その歌声は、チベットの死者の書のように、老人の魂を癒しているのだった。
 私は毎日その老人の家に通うようになった。いつも後ろのほうで、遠くから眺めているだけだったけれど、帰る日には一番前の席を与えられて、初めて団扇で老人をあおぐ役をいただいた。そして帰る間際、老人の手を握ってお別れを言った。老人の意識ははっきりとしていた。家族の人が「この人は、今日のヒコーキで、日本に帰るんですよ」と言ってくれたので、老人は私のほうをジロッと見て、「MATA、KURUKA」と言った。なんとそれは、耳慣れた日本語だった。
 このターミナルケアは、その後も毎日続き、人々が集まりだしてから40日後に老人は亡くなったと、その後、風のたよりで聞いた。島では、こうしたターミナルケアが年間2~3人あるという。人々は子どものときから、老人たちの死を生活の中でじっくりと見つめ、死者を送ってきたのだった。
 私たちは生活の中で、生も死も見ることがなくなってしまった。そのリアルな体験を医療の中に預け、直接関わることを避けてきた。仕事や学校などで忙しいから、そんなことに関わる時間の余裕をもてなくなっている。でも、それを避けてきた人々と、しっかり見つめてきた人々の違いは、その本来の意味を十分わかっているかどうかなのではないか。
 私はこの島で、自分の腰巻きを買ったとき以外、2週間いっさいお金に触ることなく過ごした。私の生活は島の人の善意に支えられていた。お金で買えるものはなく、そこにあったのはお金に変えられないものばかりだった。